大村洋子
大村洋子大村洋子

「老人と海」

とんと、最近は小説を読まなくなってしまった。もともとそんなに小説を読むこともなかったけれど、それにしても物語性のある読書をしなくなった。

最近はオーディオブック、つまり耳で聴くことが多い。食事の後に洗い物などをしていると耳が遊んでるなぁと思うともったいないから、スマホでオーディオブックを聴いている。そうすると厄介な洗い物もストレスなく終わらせることができる。

活字で読まないかというとそうでもなくて、まず、定例議会中は資料をしこたま読む。頭に入らないとなると音読までする。パソコン画面はブルーライトのせいか眼精疲労が出る。紙のほうが一覧性があるし、メモをすぐに書き込めるので便利だ。

ペーパーレスと言っても、なかなかついて行けないこともある。偉大なパピルス!に感謝。

そうそう、小説の話だった。

やっと、ヘミングウェイの「老人と海」を読み終えた。1月に購入したので読了に2カ月半も要した。

私は過去に海釣りをしたことがあるので、その時の体験を思い出しながら読み進めたけれど、3回くらい途中で投げ出したくなった。退屈だなって思ったから。最初と最後に少年が出てきて老人とのやり取りがあり、そこは面白かったのだけれど、カジキやサメとの格闘シーンがこれでもかこれでもかと出てくるので、読者を疲労させる小説だなと思った。ずっと船に乗っていて不安定な感覚が続くのも嫌悪感。

そもそも、私は「精神の耐性」を鍛えるために小説を読もうと思ったのであり、その点からすれば「老人と海」はこれ以上ないほどの目的に合致した対象だったといえる。

サンチアゴの独り言る(本当に発声しているのか、頭の中の思考なのか)様子は所々哲学的で面白いところもあった。自分が生きているのか死んでいるのか、自分が人間なのかカジキなのかそのボーダーレスは命ある生物としての自己を直視する視点となっている。海や陸や地球、宇宙、人間だけでなく鳥も魚も生きるためにたたかい食らう。過大評価すればコスモポリタニズム的な地球市民としての慈愛に満ちたストーリーとも取れる。

古今東西の著名な人が「老人と海」を評している。その中にはサンチアゴの姿にキリストの受難の姿を重ねてみるものもあるという。繰り返されるサメの襲撃の際に発したサンチアゴの声は「手のひらを釘で板まで打ち抜かれた人間が思わず発する声」に似ていたという叙述があるし、(とにかく、手の描写が多い。痛ましいほど手をやられている)港に帰り着いたサンチアゴがマストを背負って坂を上る姿が十字架を背負って坂を上るキリストの姿に見えてくるという論評もある。

しかし、当のヘミングウェイはシンボリズムなどはない。海は海、老人は老人、少年は少年、魚は魚、サメはサメ以外の何物でもない世間で言うシンボリズムなどはゴミ。と言っている。

本当のところはわからない。

さてと、「精神の耐性」を鍛えるための次なるターゲットは何にしようかな。