大村洋子
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生活保護制度を巡る問題⑤

「スティグマ」である。12月の定例議会の中で私は「扶養照会」について取り上げたが、この「扶養照会」は言わば「お上」の側からの生活保護制度のハードルを上げるもので、「スティグマ」は申請者の側の自らを押しとどめる「装置」である。「扶養照会」がトリガーとなり「スティグマ」が作動する。「スティグマ」は「扶養照会」のようなルールではなく社会になんとなく漂い、ひとり一人の心根に宿るものなので、質が悪い。12月議会の一般質問で私が「扶養照会は緩和されたか?」と質問したら、市長は福祉こども部長を指名し、福祉こども部長は「緩和された」と答弁した。こうやって明確に制度のルールは強まったり、弱まったりする。しかし、人々の内心の問題はそう易々と改善はされないのだ。

「スティグマ」について私は2019年の代表質問で取り上げている。その点については2019年4月23日のブログに以下のように書いた。そして、その後、2022年9月18日にも書いている。この時には小室卓重議員の一般質問の感想という視点で書いている。

日本の生活保護の捕捉率が諸外国と比べ異常に低いのは、生活保護は恥であるという感情=スティグマの蔓延、同時に福祉事務所職員の心無い言動によるものが多い。スティグマは当事者の中にもあり、社会全体の中にもある。本当に忌々しき事態だ。職員の心無い言動は職場全体の力量の問題と個々人の無知からくるもの。このような四方八方からの圧力によって、どれほどの人々が傷つき息をひそめて暮らしていることか。 |大村洋子 日本共産党横須賀市議会議員 (oomura-yoko.jp)

生活保護のスティグマを巡る議論で明らかになったこと~上地市長のいう「誰も一人にさせない」の本質とは~ |大村洋子 日本共産党横須賀市議会議員 (oomura-yoko.jp)

「スティグマ」についてはいずれ、市長選の前にさらに踏み込んで質問する機会を持ちたいと思う。なぜならば、これは日本における生活保護制度をより良きものにしていくための根幹、本質の問題だと私は考えるからだ。同時に「誰も一人にしない」を標榜する市長の核心部分の本性と本気度が明らかになる問題だからだ。

私がどうしてここまでこだわるのかと言えば、率直に言って、市長の言う「差別や偏見をなくすために政治家を志した」「誰も一人にしないまち・横須賀」この内実が如何ばかりのものなのかということを確かめたいと思うからだ。「スティグマ」をどう捉えるか、この議論によって、格差と貧困問題や困窮者の置かれている立場、さらには日本社会に蔓延る同調圧力やあらゆる分野の分断の問題を改善していくとっかかりになるのではないかと考えるからだ。

私が市長の言う「差別や偏見をなくすために政治家を志した」「誰も一人にしないまち・横須賀」に懐疑的になった発端は前述した2019年の「スティグマ」質問だった。私が生活保護は市民の権利であるが、スティグマがあり、なかなかすんなり利用しようという思いとならないというニュアンスで質問したのに対して、市長は「当然のことだと思っていまして、横須賀市の人が恥だと思っているとは思えません。」と答弁している。市長は生活保護の利用は市民の当然の権利である。このことを認めている。そして、生活保護を利用することを恥だと思っている市民はいないという意味の答弁をしているのだ。

私は今でもこの時の驚きの感情を良く覚えている。この時芽生えた市長の言う「差別や偏見をなくすために政治家を志した」「誰も一人にしないまち・横須賀」への懐疑心は後の2022年の小室さんとの議論を聴いて益々強くなった。なぜならば、市長は小室さんとの議論で「スティグマ」という言葉の意味がわからなかったらしく、こう言っているのだ。「副市長に聞いてわかった、烙印と言う意味なのね、日本語で言ってもらわないとわからない。」と。私は呆れ果てた。3年半前に私と議論したではないか。何も血肉になってないのか。

つまり、市長の中に「スティグマ」という人々の中の、そして社会に漂う機微についての認識や考察は希薄ではなく、ないのだということだ。したがって、2019年に私に答弁した「横須賀市の人が恥だと思っているとは思えません。」という中身についてもどれほどの重みを持って答弁しているか疑わしい。恥だと思う必要など全くない、生活保護は権利だから。その論法で良い。しかし、現実はどうか?非難されるのではないか、恥ずかしいことではないか、その思いを持ちながら福祉事務所へ足を運ぶ市民感情がまるで理解できていないがごとき答弁ではないか。

9月に過去の私へのジェンダー問題、選択的夫婦別姓問題について6月と同じように「DNA」を持ち出して答弁したことについて取り上げた。そして12月には「ハラスメント」について取り上げた。この時の市長の答弁の中に注目すべきワードが出てきた。「マインド」である。権力を持っている側が、男性が、健常者が、大人が、就労年齢者が「マインド」という言葉を用いるとは何だろうか。

私はこの市長の論法を聴いていて、1983年8月6日に時の首相、中曽根康弘氏が広島原爆養護ホームを訪問した際に「気持ちさえしっかりしてれば病気は治る」と言ったことを思い出した。原爆症で苦しむ人を前に「病は気から」論をぶち上げたのだ。精神作用で自己の治癒力がアップするのは科学的に明らかになってきているのは承知しているが、お見舞いのあいさつにはお門違いも甚だしい。しかも政治の延長である戦争の最終段階で犠牲になった方々である。原爆投下で日常や人生を奪われ、苦しんでいる方々を前にしてである。厚顔無恥、人の道を逸脱している。

つまり、「気の持ちよう」とか「マインド」とか言うことは現状を改善していくために、何の役にも立たないのではないかということだ。「辛いと思えば辛いし」「大したことないと思えば大したことないし」現状を受け止め我慢し、飲み込み、乗り越えろと言ってるみたいに私には聞こえる。繰り返しになるが、だから、権力を持っている側が、男性が、健常者が、大人が、就労年齢者が「マインド」という言葉を用いるときには用心しなければならない。鈍感なこれらの人々は差別され、偏見を持たれ、ハラスメントを受け、ステイグマに苦しむ人々の立場が理解できない。現状を直視しないし、直視する感性が必要なことが理解できない。上地市長のこれまでの答弁を聴くと私は非常に不安になるしこういう方が横須賀の首長とは深刻だなと思う。

この数年間でジェンダー平等やLGBTQ+が大きく前進した。これは当事者が勇気をもって社会に告発したからだと思う。鈍感な人々が「気の持ちよう」とか「マインド」と言ってることに納得せずに声をあげ行動してきたことが社会を大きく動かしてきた。そして、敏感な人々はどんどん自己改革に目覚めている。

生活保護制度は最後の安全網だ。生活相談活動をライフワークと位置付けている私はこれからも引き続き、支援活動と、横須賀市の制度改善のために尽力する。そして、この活動は人間の極めてエモーショナルな活動であり、差別や偏見とのたたかい、自己改革のたたかいでもある。上地市長は反面教師。上地市長の発想を他人事と思わず、より良き横須賀のために今後も真摯に取り組んでいきたい。