大村洋子
大村洋子大村洋子

生活保護のスティグマを巡る議論で明らかになったこと~上地市長のいう「誰も一人にさせない」の本質とは~

 

9月定例議会の先日の一般質問で小室卓重議員が生活保護におけるスティグマの問題を取り上げていらした。小室議員は「生活保護は権利です」というポスターを作成し掲示したらどうか、市役所壁の懸垂幕として掲げても良いと提案されていた。私もその通り!とまったく共感の思いをもった。

この提案に対して市長は「この情報(生活保護の利用の手続きを市役所が行っている)知らない人っているの?」と答弁とも質問とも受け取れる言い方で小室議員に答えていたが、私はこのリアクションを目の当たりにして、質問の趣旨を理解していないなと呆れた。

小室議員はそのあとにご本人が言っていた通り、知っているとか知らないとかではなく、社会全体に対して啓発したいという思いで提案していたのだ。
しかも市長は「スティグマ」という言葉の意味がわからなかったらしく「副市長に聞いてわかった、烙印と言う意味なのね、日本語で言ってもらわないとわからない」とつぶやいていた。

「スティグマ」と言う言葉は横須賀市議会会議録で検索すると、10回出てくる。7回は藤野英明議員、3回は大村洋子が使っている。しかも私は2019年の代表質問で以下のように上地市長と質疑を交わしている。

大村洋子 「最初に1問目でも言いましたけれども、生活保護制度はやはりヨーロッパに比べれば捕捉率がまだまだ低いのです。なので、もっと本当は周知をするべきだと思うし、そしてまた、生活保護は恥だという考えがまだまだあると思うのです。スティグマと言われておりますけれども、1874年、明治7年のときに恤救規則というのがありました。これは70歳以上の病気の方と13歳以下の孤児といった本当に限られた人たちだけの慈恵的な救済で、そういう極めて制限的な中で生活保護制度ができ上がってきたということがあり、まだまだ恥だと思っているところがあると思うのですが、市長、これは市民の権利ですね。いかがですか。」

上地克明市長 「当然のことだと思っていまして、横須賀市の人が恥だと思っているとは思えません。」

大村洋子 「当然だと思うのですが、権利だとはっきりおっしゃっていただきたい。」
上地克明 「当然の権利でしょう。」
大村洋子 「権利だということが、なかなか浸透していないのです。ですので、本当に基本的なことですけれども、そこを、市長の口からはっきり言っていただきたかったわけです。」

今回、小室議員との質疑を聞いていて感じたのは、
①    市長は2019年に私と質疑した内容や意味について何も理解できていなかった。
②    したがって、記憶にすらない。
③    「スティグマ」という言葉を未だに知らない。
④    日本社会にはびこっている「スティグマ」がどれほど生活保護へのハードルをあげているのか、まったく理解していない。

① ~④から何が言えるかというと市長は差別や偏見を憎み無くしたいと言っているが、その差別や偏見の実態を理解していないのではないかということだ。生活保護制度は制度としてはかなり知られていると思う。しかし、いざ、その制度を利用しようとすると、扶養義務の問題を言われ兄弟や親せきに知られたり、向こう三軒両隣の近所に知られたりするのが嫌だという思いが根強いのだ。その「烙印」や「偏見」「恥の気持ち」が「スティグマ」である。市長はそんなこと気にしないで、権利なんだから使って当たり前なんだよというスタンスなのだろう。だから単純に「横須賀市の人が「恥」だと思っている人がいるとは思えない」となるわけだ。しかし、本当に簡単に言っていいのだろうか。その認識こそ実態を知らない発言と言わざるを得ない。私はご本人たちが苦悶する現場を何度も何度も何度も経験している。その気持ちに気が付くことができていない、寄り添うことができていない、そんな「誰も一人にさせない」とは何なのか。どういう意味なのか。どういうつもりでこれを掲げているのか。

問いたい。

市長はよく「当然」とか「当たり前」という言葉を用いる。それは上地市長にとっては「当然」であり「当たり前」なのかもしれないが、多くの人はプロセスを知りたいのである。生活保護は「当然の権利」というとき、なぜ、当然なのか、そこを市民の前にしっかりと示すことが必要なのだ。「当然」という言葉でプロセスを一切省き議論の深化を中断するやり方は建設的とは言えない。
小室議員との質疑を聞いていて、ことほどさように「誰も一人にさせない」の内容とはいったい何のか、とても不安になったのである。

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平作川のアオサギ シルエットも美しい。