大村洋子
大村洋子大村洋子

女性蔑視の上地発言を考察する⑫

改めてジェンダーとは何だろうか。「ジェンダー(gender)」は、生物学的な性差を指す「セックス(sex)」とは異なり、社会的・文化的な性差を指す。「男性はこうあるべきだ」「女性はこうあるべきだ」というような社会的なイメージや役割分担により発生するものと言われている。社会的とか文化的とはどういうことだろうか。時代背景と大きくかかわるのではないか。

戦争は最悪のジェンダー不平等

私の父はもう他界しているが1927年生まれなので、生きていれば95歳である。母は1つ下なので、生きていれば94歳である。父は徴兵検査の時に戦地に行くのが嫌で、醬油をがぶ飲みして自ら体調を崩し、兵隊として使いものにならぬことを演じて、うまい具合に呉の海軍工廠の勤務に回された。15歳か16歳ではないかと思う。母の青年期を私は知らないが、今でいう看護助手となって東京の病院で働いていたらしい。太平洋戦争への準備段階1930年代後半あたり、つまり90年くらい前の日本では、男に生まれれば❝兵隊❞になり、女に生まれれば❝銃後の母❞となった。それを国が良き国民像として植え付けた。そういう意味では戦争は最悪のジェンダー不平等だ。国家が国民に将来の生き方を勝手に押し付けることがまかり通っていたのだ。戦争が終わって、戦後の高度経済成長期となっても男は外で働き女は家で家事育児という性別役割分担が固定され続けた。年功序列で定年まで働ける労働者が大量に作られ、日本が経済大国になるためにそういう性別役割分担が構造として機能し維持された。矛盾に思った一部の女性たちが時々立ち上がって、ムーブメントを起こしたけれど、それは単発的に過ぎず、抜本的な改革には至らなかった。

ジェンダー平等はパラダイムシフトを生む

ジェンダー平等を推進するためには社会構造と結びつけて考える必要が出てくる。だから、小手先の改革ではない、抜本的な改革を求めざるをえない。例えば、「うちの夫は優しいのよ。家事も育児も手伝ってくれるの。だから、私もフルタイムでバリバリ働けるのよ」と言う妻がいたとする。明治時代の人からは「細君を外で働かせるとは何て、甲斐性なしの亭主だ!」と言われるだろう。平成の人たちからは「あら、ステキなパパね。今どき夫はこうでなくっちゃね」と言われるかも。でも2023年の今や、家事や育児は夫が「手伝う」ものではない。夫婦共働きで生活しているのならば、対等に家事育児を行って当たり前これが主流だ。もはや、家事育児をする夫はそれが普通であって、改めて優しいというほどのものではないはずだ。

つまり、ジェンダー平等の概念は社会の構造的な変化にともない、自然発生してきた部分と、矛盾を声にしてムーブメントとして推進してきた部分の融合によって生まれたものではないかと私は思う。今までの女性差別撤廃運動とは内容を異にする。だから、それは単に女権拡張ではなくて、自分らしく生きることであり、人権そのものであり、人間解放であり、パラダイムシフトなんだ。語彙が貧弱で、言語化できないのがもどかしい。女性だけが権利を主張し、女性だけが男性と同等になることで、ホッとするものではなくて、そのことで、全ての社会の構成員に影響が及び、全ての社会の構成員の「自分らしく生きる」に直結することなのだ。

「私の家庭は同列です」という人=上地市長は差別が社会構造の中で作られてきたことを知らないのか

上地市長が「私結婚してからすべて女房が決定権を持ってたんで。全く逆で。機能分担、役割分担出来てきたから、家庭の中で全く、同列で、だから私にとっては仕事でもなんでも男女の区別は全くないし、今でもそうなんで、それをだからいつもそこの話になるんですが、その女性の数をある程度しなきゃいけないっていう意味が私には今でもよく分からない。」と発言したとき、それは個人のサロン話ならば「あっ、そう」で聞き流せるが、それを言ってるあなたは誰で、どういう立場なんですか?と問いたくなるのである。自分の家はあったりまえにやってきたしやっている、ふんぞり~とやられると、それすらもうそ臭く聞こえる。個人的な話はあまり必要ないのである。横須賀市政を社会を良い方向に進めるためにどうするかということに眼目があるのだから。上地市長はジェンダー平等ということの意味が理解されているのか?疑わしい。差別や偏見は何か人間の「DNA」とか「怨念」にしみ込んでいるものではなくて、社会構造として、もっと言えば支配ー被支配の関係性として編み出され固定化されたものなのだと思う。だから、自分の家では同列でやってきました。男女の区別は全くないんです。と繰り返したって、日本社会は世界から見ればジェンダーギャップ指数が著しく低いわけで、それは社会的文化的性差つまり社会構造として差別をしっかりとらえることができていないから、改善が進まないのではないか。心の問題、精神の問題、「DNA」とか「怨念」とかわけのわからないことを言って、足を引っ張る人がまだまだいるから、まっとうに改善されていかないのではないか。  次は「自己検討」「自己改革」について考えたい。私たちの生きる社会は差別と偏見に満ちている。残念ながらそうなんだ。息を吸うように差別の感情は体に入り知らぬ間に堆積する。だから、自覚的に自問自答を繰り返し続けなければならぬ。誰も例外は許されない。 ⑬へ。