大村洋子
大村洋子大村洋子

女性蔑視の上地発言を考察する⑪

⑩では上地市長の「女性のDNA ミトコンドリアの中に常に虐げられた歴史があって・・・」という言葉には生物学的観点で語られたという意味で考えれば「生まれつき」というニュアンスがあり、そのことは誤解を生じかねない言い回しであることを展開してきた。女性と男性には肉体的な違いはあるにせよ、女性はこどもを産むという肉体的特徴があり、しかし、それはあくまで、女性本人が決めることであること、頭脳という点では差はないのではないかということ、これらについて考えてきた。頭脳という点では社会的、環境的観点であるジェンダーにも大いに関係することなので、後にまた考えたい。

「DNA」という言葉には「運命」という匂いが漂う

今日のメインは⑨で書いた「避けられないもの」「逃れようのないもの」「変えられないもの」というニュアンス、「宿命」とか「運命」という匂いが漂う「DNA ミトコンドリア」についてである。ドリーというクローンの羊が誕生して以降生命科学の分野では、哲学的観点とも通じる「私とは何か」ということが大きな課題になってきた。私は30年くらい前に「臓器移植」とか「代理母」の問題を読書を通して知って、またリチャード・ドーキンスの「利己的な遺伝子」という考え方にも大きな衝撃を受けた。自己と非自己という概念は多田富雄先生の「免疫の意味論」を読んだ際に深く考えたことだ。個体にとって自己を決定するのは何か?頭つまり脳なのか、脳以外の身体なのかニワトリとウズラを掛け合わせた「キメラ」を観察することで多田氏は考えた。さらに「胸腺」の存在と免疫をシステムとして「昇華」させて体系づけている。(「昇華」という言葉も本来、こういう時に使うものだ)

「DNA」という言葉には「差別をなくしたい、社会を変えたい」という女性の能動性を否定するニュアンスを感じる

要するに私は「DNA」や「遺伝子」それに派生する「免疫」を考える際に「個」とか「私」というものをどうしても結び付けて考える。2002年私は皮肉にも自分自身が関節リウマチに罹患したので、自分が自分をアタックする自己免疫疾患について身体の痛みよりも前に概念として頭でわかっていたということになる。ともあれ、私は人間というもの、もっと言えば生物全体、そしてその生き死にの全過程で作用している「DNA」についてまたそれに派生して「免疫」について軽々に扱ってほしくないのである。上地発言への嫌悪感の震源はここにある。

「DNA」と言ったとき前述のように「避けられないもの」「逃れようのないもの」「変えられないもの」というニュアンスがつきまとう。それは「個」や「私」に特有のもので、他者との隔絶を意味する言葉と受け取られるのが通常だと思う。ところが、ここが非常に特異なところなのだけれども、上地市長は主語を「女性」としたのだ。そして、歴史を問題にしているし古今東西のと言っているわけだから、人類史の全世界の女性を指しているということだ。

私なりに解釈すると「人類史上どの地域の女性たちにも虐げられた出来事が続いてきた。それはどうにも避けられないものであり、逃れられないものであり、変えられないものなのである。」上地市長はこう言ったということだ。つまり上地市長は自覚できていないと思われるが、女性差別の歴史を運命論と規定しているのだ。

私はこれは致命的な発言だと思う。虐げられた歴史=差別の歴史が「DNA」の中にあるという概念は「変えたい」という女性の能動性を否定することにつながる。むしろ、「DNA」には「引き継ぐ」、「結びつく」、「守り伝える」といった言葉に親和性があるように思うからだ。

上地市長、「DNA」を持ち出すと初志とも自己矛盾しますよ。

そして、これは市長自身の言葉や志をも否定する。上地氏は「差別や偏見ある社会をなくしたいと思って政治家を志した」はずだ。なのに、なぜ、そこに「避けられないもの」「逃れようのないもの」「変えられないもの」を感じさせる「DNA」を持ち出すのか。自己矛盾の極みである。おそらくご自分の思考回路を自覚されていないのだと思う。私はそこに深刻さを感じる。言葉を転がしてもてあそぶ、その転がしている言葉を使うことの意味が分かっていない。次はいよいよジェンダーの視点だ。