大村洋子
大村洋子大村洋子

女性蔑視の上地発言を考察する⑧

前回、市議時代の14年間の発言のファイル「上地克明アーカイブ」に触れ、その後市長になってからの上地氏を構成する柱を私は勝手に3本として、①基地対策関係②マーケティングと中小企業振興基本条例③人間観・地域で支える条例 を挙げた。その中の③については前述の条例と広報よこすかの「市長の独り言」コラムを具体的に挙げた。私としてはもう1つこの中に入れたい内容がある。それが、これから考えようとする教育委員会の「教育大綱」である。

「私が好き、あなたが好き、横須賀が好き」から「あなたが好き、私が好き、横須賀が好き」へ

教育大綱のメインスローガンは元々「私が好き、あなたが好き、横須賀が好き」だった。それが、総合教育会議に提案された際に、上地市長が「私が好き」より「あなたが好き」を先に持ってきた方が良いのではないかと提案した。そして、次の総合教育会議では、唐突にメインスローガンが紹介されて、それは「あなたが好き、私が好き、横須賀が好き」に変わってしまっていた。私はこの2回の総合教育会議を傍聴していたので、その時の自分の中に起こった違和感を今でもよく覚えている。違和感の中身は2つあって、一つはこのメインスローガンは当初のとおり「私が好き」を最初にする方が良いということ、そして2つ目は市長の「鶴の一声」でいとも簡単に変えられてしまったということ。

まずは後者についてから。これは実は市長の提案を受けた後に、教育委員会は教育振興基本計画策定検討委員会という会議体の中で、かなり熟議をしていた。会議録がネットに出ていなかったので、私は取り寄せて読み込んだ。つまり1度目の総合教育会議と2度目の総合教育会議の間には熟議がされていたということだ。それを教育委員会は総合教育会議で報告を端折ってしまった。この報告を端折ったことで、私は2度目の総合教育会議に出た際に、なぁんだ、市長が言ったからパッと変わってしまったのかと思った。これは教育委員会の不透明な運営ということで、今回の教育長の不選任の理由の1つとなった。従って、市長の提案がきっかけではあったが、教育委員会はきちんと手続きに則って2度目の総合教育会議に出してきたということだ。報告を端折ったのは良くなかったが。

そして、もう1つの前者の方の「あなたが好き」を前に持ってきたという点について。私は市長の提案には反対だなと思った。今でもその気持ちは同じだ。私はルネ・デカルトの「我思うゆえに我あり」からすると物事の始まりはすべて自分からという思いがある。史的唯物論の考え方から言うと、我の前に既に地球があり、宇宙がありと言うことになるが、その認識も自己の脳があって初めて認識されるのだと思う。教育振興基本計画策定検討委員会の中では、自己はひとり自己のみで認識されない、他者がいて初めて自己が認識されるというような発言もあった。私と同じように「我思うゆえに我あり」を主張された方もいて、そうそう、そのとおりと思った。認識論の話からすれば、「私」も「あなた」も同時でなければつじつまが合わなくなる。しかし、私はやはり、自分は自分として一生生きていくわけだから、その自分が受け止めるとしたら、「あなた」よりも「私」が先に来るのが自然ではないかと感じる。まぁ、「私」でも「あなた」でもこの際どちらでも良い、もう、「あなたが好き、私が好き、横須賀が好き」に決まってしまったのだから。私がここでこだわるのはなぜ上地市長は「あなたが好き」を先にしたいと思ったのかということだ。

もう、ここからは、大村洋子の思い込みだと思ってもらっても一向に構わない。「あなたが好き」を一番にもってきたい上地市長は一人一人は「みんなのことを考える私」になってほしいと思っているのではないかなということだ。⑦に出した「地域で支える条例」の目的は「安心して暮らせる社会の実現に向けて、人と人との絆や近隣との連携を深めるとともに、心豊かなまちづくりを推進し、もって地域で支え合う社会を実現すること」である。これを理念条例として上程した人物は人を思いやって、人を慈しんでそれが広がっていけばおのずと差別のない社会になっていくはず、そう思っているのではないか。みんなが「私」より「あなた」を先に思えば、社会は良くなる。自分はそういう社会を作りたいのだ。そういうことじゃないかと思う。「よかった。ありがとう。」と言い合って、「誰も一人にさせないまち」になっていくのだ。青木哲正議員とのやり取りの中でも上地市長は「実は横須賀は昔からその意味でみんなで助け合った地域社会であった。私は少なくともそうだというふうに思ってるから、そういう社会の延長の上に横須賀は私は成り立っているし、これからも作っていきたいというふうに考えているので、歴史はその上に乗っかっているもんだというふうに思っています」と言っている。市長の中ではどこまでも地域がありその地域で社会が構成され、それが横須賀になり、それらの上に歴史が乗っているとのことだ。

しかし、それだけでは不十分ではないか。少し古い感じがする。古いというより、ジェンダー平等とダイバーシティ推進との関係性から言ってどうか。良き人々の良き地域が良き横須賀をつくり良き歴史となる。慈しむ助け合った地域社会で差別はなくなるのか。そんなはずはない。仲良くやっていきましょうねと繰り返すだけでは本当に仲良くやっていくことは出来ないのではないか。とにかく、みんな助って支え合って協力し合っいこうよと繰り返すばかりでは精神論、根性論の域を出ない。

「個」よりも「集団」を重んじるような発想とも受け取られかねない、聖徳太子以来の「和をもって尊しとなす」の悪いバージョンだ。だから同調圧力と受け取られたとするならば、違う自分を主張することに大きな力のいる考え方である。今の社会では支え合いたくなんかない、協力もしたくない、そういう人々もいる。私が好きと強要されるのも困る。そもそも私もあなたも好きじゃない。そういう人もいる。自己肯定感の持てない人もたくさんいるのだ。想像を絶するような怪事件が起きる社会で、精神論や根性論の繰り返しは空々しくさえある。あぁ、なんか、だんだん、暗くなってきたな。だからと言って、理想や理念を語るなと言っているわけではない。どちらかと言えば私だって、夢想家の類だ。今回はこの辺で。次回は地上1階へ戻らないと。

誰しも自分以外にはなれないもんね