浦賀みなと祭 2019年
横須賀で一番大きな花火は開国際の花火でしょうけれど、私は浦賀の人々が夕刻繰り出して「陸軍桟橋」に腰かけて見る花火が一番好きです。
毎年引揚船の碑の前で踊りが披露されます。
お坊さんがたくさん来てお経をあげます。
今年は何年かに1度市議会議員として発言する機会となりましたので心を込めてごあいさつしました。
本日、ここに、関東大震災受難者、水難者、引揚船関連戦病死者、および浦賀・鴨居地区の戦争犠牲者の慰霊法要が、浦賀仏教会及び関係の皆様のご努力により、このようにしめやかにかつ厳粛に行われますこと心よりお礼申し上げます。
災害、戦争等で犠牲となった多くの方々に哀悼の誠を捧げます。
さて、浦賀みなと祭は今年で67回目を迎えました。
浦賀・鴨居のみなさまにとっては、夏の終わりの風物詩となっていることと存じます。夜空に輝く花火をご覧になり、ご家族やお友達と語らい、笑い合い楽しい時間となることでしょう。当たり前のように流れていく幸福な時間をかみしめながら、先人たちの尊い命が犠牲となったことも心に留め置きたいと存じます。
私事ではありますが、8月9日から14日まで、中国東北部、満州と呼ばれた地域でございますが、その瀋陽とハルビンを旅してまいりました。私の父は鳥取県の出身でございまして、生前、若いころには広島県呉の海軍工廠で化学実験に携わっていたことがあります。その父が「満蒙開拓団」の話をしてくれたことがあります。全国の中で、長野県、山形県などで、村ごと移住するといったことが実際行われたようですが、敗戦間近となった際に命からがら、日本に逃げ帰ったということです。その際、置き去りとなってしまったのが、日本人残留孤児でございます。今回の旅では、帰ることができなかった満蒙開拓団の人々のお墓にお参りに行くことができましたし、残留孤児を育てた中国人養母さんにもお会いできました。
私は今回、こうしてご挨拶させていただくにあたり、少し浦賀港引揚船について振り返ってみました。朝日新聞の「復員船」という記事によれば、昭和21年8月9日には満州方面コロ島から一般邦人3,092名、10日には同じく満州方面コロ島から一般邦人男性759名、一般邦人女性934名、子ども802名が浦賀港に着いています。当時の浦賀、鴨居地域のみなさまは多くの引揚者を受け入れ、同時にコレラ蔓延を防ぐため壮絶な努力をされたと伺っております。
つい先日、ハルビンの地で、亡くなられた満蒙開拓団の方々へ黙とうを捧げてまいりましたので、今日、こうして今度は引揚船の方々に思いを馳せていることに私自身、少し不思議さを感じております。
万感交々いたる、浦賀の地にあって、こうして今年も地域をあげて「お祭り」ができることを先達の皆様方に心からの感謝をいたしつつ、平和な日本、平和な横須賀、浦賀がいつまでも続きますように強く願って、私のごあいさつとさせていただきます。
本日はありがとうございました。
終わってから、ある地区の会長さんが「中国へ行ったんだね。北京へ行く人は多いけど、瀋陽やハルビンへ行く人は珍しい」と声をかけてきてくれました。
私としては加害の歴史、侵略の歴史、731部隊のことも展開しようかしらとも思ったのですが、浦賀港にちなんで引揚船の歴史に特化する方がまとまって良いかなと思いました。
74年前にはこの桟橋に56万人の引揚者が着いたのです。