女性蔑視の上地発言を考察する④
さて、書けば書くほど内容が広がっていく。今回の発言だけでなしに、過去の発言にまで言及せざるを得なくなる。そうすると、そこで、またいろいろと調べたりして書き足さなくてはならなくなる。私自身も勉強である。今回の発言に戻ろう。しつこいようだが、もう1度上地発言を以下に張り付ける。
「その怨念、無念さがたぶん、今の社会を構成している。(中略)反動形成で男女共同参画社会っていう話が出てて、女性が、女性が、っていう声が思い切りでるのは、つまりそういう女性が虐げられた人の歴史というもの、あるいはその念みたいなものを浄化させなきゃいけない、昇華させなきゃいけない時代に来てるところ」これについて考えてみたいと思う。
怨念とは「深く心に刻み込まれた恨み」「対象とするものを恨めしく思うことで、他人に対する個人的な私情をはさむ感情」「嫉妬とも呼べる感情で相手のことを良く思わず、ひどく憎しみを持つこと」「祟りなどを及ぼすとされる思念」「恨みや憎しみなど負の念がグルグル絡まった塊」・・・いろいろ出てくる。おどろおどろしい。
無念とは「悔しくてたまらないこと」「悲しみ」「後悔」
おどろおどろしい念が社会を構成していて、それが原動力になって男女共同参画社会が形成される by 横須賀市長上地克明
上地市長の思考回路はどうもはじめに修飾語が並べられるようだ。そして、主語、述語という明確な形での文章ではなく、思いついた言葉が羅列的に並ぶ。しかもその言葉は市長のお気に入りの言葉で抒情的、情緒的な言葉を多用するため多くの人々と共有しづらい。他者にわかりやすく伝えようという思いが希薄で、自分の中だけで完結してそれでよしと思っている。それでもわかる人にはわかるというような、ピンポイントでの刺さる表現ならまだしも、誰にも分らない世界に浸り、悦に入るという首長にあるまじき答弁をする。
前回と同じようにこの部分のパラグラフも私なりに箇条書きに分解してみよう。
①社会を構成しているのは女性の怨念や無念さ
②「怨念」や「無念さ」によって反動形成されたものが男女共同参画社会
③女性が女性がという声は「怨念」や「無念さ」から来ている。
三段論法みたいになるけれど、まとめると女性が声をあげるのは「虐げられた歴史」の「怨念」や「無念さ」ゆえのものであり、その反動が社会の中で形成され、それが男女共同参画社会を目指す原動力となっている。男女共同参画社会の実現への道は逆説的ではあるが、推進力となってきた「怨念」や「無念さ」を「浄化」「昇華」させていくことにもなる。「怨念」や「無念さ」であるから、「浄化」や「昇華」という言葉と呼応させるのは文学的には妙であり面白いと思う。しかし、女性差別の歴史を論じる場合、このような叙述はまったくナンセンスなのである。
なぜかと言えば、「怨念」という極めて個人的な感情、「私怨」のような感情に差別を矮小化させてしまっているからだ。恨めしさ、憎しみ、悲しみそういう曖昧模糊な塊は社会の構造やしくみとは無縁のものだ。「怨念」や「無念さ」という観念論の世界では「浄化」あるいは「昇華」を対置させても良いかもしれないが、差別を論じる場合に解決への方向を「浄化」や「昇華」で片づけてはならないのだ。
ここで、改めて「浄化」とは何かを確認しよう。
浄化・・・汚れを取り除いてきれいにすること、悪弊・罪・心の穢れなどを取り除き、正しいあり方に戻すこと。ギリシャ語で言うとカタルシス。私の捉え方でいうと、ストレスがすごく溜まってしまったときに映画を観て、はらはらと涙を流し、気持ちがすっきりする、そういう時をカタルシスという。そんなふうに思っている。
浄化という言葉には前述のように汚いものをきれいにする、取り除くという意味合いがあった。ところで、ここでいう、汚いもの、否定的なものとは何か。それは「怨念」であり「無念さ」である。「怨念」や「無念さ」とは「虐げられた女性の歴史」であった。では、そもそも「虐げられた女性の歴史」は汚いものなのかという疑問が出てくる。⑤につづく。