浦賀レンガドック
住友重機械工業株式会社旧浦賀艦船工場のれんがドック周辺部が横須賀市に無償寄付されることが決まった。寄付されるエリアは浦賀生協「ママの広場」の道路を挟んだ反対側から西浦賀方面のカーブした一帯となる。現在は「コミュニティ広場」として「咸臨丸フェスティバル」や夏の地域のお祭りなどに利用されている。
浦賀工場は2003年(平成15年)に閉鎖された。私はこの年、はじめて市議選に出馬したので、強く記憶している。私が知っている浦賀のまちは既に往年の活気ある労働者のまちではなかったが、それでも造船の歴史を刻む大企業の工場閉鎖は浦賀の先行きを案じるに余りある出来事だった。
浦賀のまちの人々にとって、住重の工場跡地がどうなるのか・・・これは大きなテーマであった。
日本共産党市議団としては沢田市長、蒲谷市長、吉田市長、そして上地市長に毎年、予算要望書の中で住重さんには無償譲渡をしていただくように交渉してほしいと要望してきた。
一時期、海洋系の大学の誘致が噂に上がったが霧消してしまった。
2012年8月の私の議会報告ニュースでは浦賀選出の7人の議員が住友重機械工業株式会社の方々と懇談したことが記事になっている。
その時点で住重は「際立って何か今、動きがあるわけではない。跡地はもう製造の場として使うことはない。かと言って何か改めて住重として事業展開する予定もない。」と発言していた。
2007年に住重は市へ「5年から10年は今の方針で凍結させてほしい」と表明していた。その時点から今年で13年だ。
すでに「コミュニティ広場」として地域に貸していただいている「既成事実」があり、「実績」の中で住重さんとしても決断されたのではないかと私は感じた。
それと市長が吉田氏から上地氏に代わり、跡地についての考え方、姿勢も少し変わったように思う。上地市長は一貫して“土地は住重さんのもの、市がどうこう言うのはお門違い”こういう姿勢で答弁してきた。私には大企業の経営というものがよくわからないし、2003年工場閉鎖当時であったなら、否、数年前まで「浦賀地域にそうとう世話になってるじゃないですか、企業としては無償譲渡が当たり前ですよ。」と言っていた。“ノブレスオブリージュ”である。しかし、上地市長はそういう「手法」はとらなかった。あくまで、レンガドックは後世に残してほしい、引き続きイベントに活用させてほしいと言いながら、粘り強く、あくまで主体は住重に置いていた。
と、これは私のあくまで私見だけれど、そういう上地市長の姿勢が今回の寄附につながったのではないかなと思う。
他にも私のあずかり知らぬ要因があったのだろうけれど、いずれにしても、この決定は重大なことだと思う。
地域の人々からは「親水性のある公園にして市民が憩えるものに」とか「どうせマンションにするために売るんでしょ」とか「とにかく、壁を取ってよ、そうしないと、観光の面で見栄えが悪い」とか「壁を取ったら中がスケスケで余計にまずい」とか「壁を取ったら、塩害が出る」とか「西と東を橋で結べ」とか、これで収集付くのかなと思うほど、バラエティーに富んだご意見が出ていた。
今回の件を知って一番に沸き上がった感情は「嬉しい!」だった。
執行機関からの説明ペーパーには冒頭に書いたように「浦賀レンガドック周辺部の寄附について」という標題があったので、「周辺部って・・・これ、レンガドックそのものを寄附ってことですよね?」と聞き返してしまった。
そうなのである!今回の寄附はレンガドックそのものが入っているのである。
このことの本当の意義が私にはまだよくわかっていない。
でも、たぶん、これは、すごいことなのだとうすうすわかっている。
それを十分な手応えにするために、そして、浦賀のまちの宝にするためにまずはよく調査研究学びだと思う。今はここまでだ。メガトン級の宝にできるか否かはこれからにかかっている。
3枚目の写真は「富岡製糸場」。
世界遺産になったレンガ積みの技術のはじまりは「横須賀」なのである!
解体される前の浦賀の機関工場。
こちらの写真は富岡製糸場の工場内。見比べると同じように「トラス工法」によって作られ柱が一本もない。
フランスから教えられた技術が横須賀を経て富岡へ伝わったことがわかる。