大村洋子
大村洋子大村洋子

最悪のレイシズム(人種差別)凶暴なヘイトクライム(差別犯罪)関東大震災 朝鮮人・中国人虐殺から100年今、考える 歴史の事実と今日の課題

1923年9月1日に関東大震災が起きて今年は100年。全国いたるところで、防災・減災のイベントが行われると思うが、朝鮮人・中国人の虐殺にスポットを当てて記念講演会を行うというので、参加してみた。「関東大震災の時に朝鮮人が井戸に毒を流した」という流言は比較的有名で、そのことによって、多くの朝鮮人が殺されたということも知っていた。これは確か、教科書に載っていたと思う。あるいは教科書に載っているということを大人なってから客観的事実として知り認識したのかもしれない。

私は人種や民族で人を差別してはいけないという思いを持っている。しかし、同時に本当に根っからそう思っているのか、そこは疑わしいぞと、思考停止状態で自分自身を正当化するのはやめようと思っている。

なぜかと言えば、私の父は話の節々に差別感情が表れていたからだ。それは夕食のときにお酒が入るとたまに出てきていた。聞かされていた私自身がその時に批判的にそれを受け止め心の中で打ち消すことができたとは到底思えない。今になって、父の言葉の差別感情を客観的に捉え、批判できるのはそののちの自己の学習によってである。その点から言えば、父は偉大なる反面教師と言える。しかし、今もって父の紐帯から完全に解き放たれたかと言えば、自信はないのである。従って、私は自分をも信用しない。この世に完全に差別しない人間なんて存在しない。差別社会で呼吸をして生きている私たちは全員が濃淡はあるが、全員が差別者なのだ。私はそんなふうに思っている。

自分のことを書きだすときりがないので、もう、やめる。話を講演会に戻そう。

この講演会の講演者である後藤周氏のレジュメによれば、関東大震災の死者、行方不明者は2万6千人。東京も甚大な被害だったが、神奈川県とりわけ横浜は最も甚大だった。県庁、市役所、裁判所、港等中枢が焼かれ行政や警察は機能が麻痺した。実に7警察署のうち6警察署が倒壊、焼失したというから無法地帯と化したといっていいのだろう。

流言は「鮮人(ママ)約200名襲来、放火、強姦、井戸に投毒」「一部は武器を携帯」「鉱山用の爆弾を所持」というものであり、これらデマがまことしやかに流されることで、民衆が自警団を組織し、虐殺へと手を染めていくことになる。

もう1人の講演者である神奈川新聞の石橋学記者は朝鮮人虐殺に関する副読本「2012年度版わかるヨコハマ」をレジュメの中に紹介していた。そこには朝鮮人や中国人が虐殺される事件が起きた背景は1919年3月1日に起きた(3.1独立運動)があり、朝鮮民族の日本の植民地支配に抵抗するたたかいが、日本人の中に恐怖心と差別意識があったとのくだりがある。つまり、日本人は自分たちの行いに後ろめたさを持っていたので、朝鮮人は日本人を恨んでいるに違いない、災厄を機に暴動をたくらむに違いない、やられる前にやってしまおう、そうだ、町を守ろう、私たちの町だ、私たちの町を守るためには朝鮮人を捕まえ、殺してしまおう、この行いは正しい。私たちの町は私たちの手で、朝鮮人から守るのだ。そうやって自己正当化したのではないか。

そうなったときに誰がストップをかけられるだろうか。私は難しかったのだろうと想像する。もちろん虐殺を肯定する気持ちはさらさらないが、ノーの声を挙げたら、今度はその人が袋叩きとなる。集団の同調圧力は止めようがない。だからこそ、小さい芽の時に逃さず断ち切ることが大切なのだ。

憎悪のピラミッドというのがあるそうだ。石橋記者が紹介してくれた。

一番下の「先入観による行為」で思い出すのはオリンピックの組織委員長だった森喜朗氏が、「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」という発言をしたことだ。これは「敵意の表明」にあたるのではないか。だから、女性が会議に入るのは困る、物事が決まっていかない、そう言いたいのだろう、「排除の論理」だ。

「偏見による行為」で思い出すのはごく最近起きた渋谷区の副区長が女性区議をブタ呼ばわりしたケースだ。これは「意図的な差別表現」であり「非人間化」と言える。そうそう、ヴェルニー公園で原子力空母反対の集会が行われると、黒い車でがなり立てながらやって来る人たちも「共産党は日本から出ていけ~!」と言っている。出ていけと言われても、日本で生まれ日本で育ち日本で暮らしている、私に対して居住権はく奪ですか?と言いたくなる。

以前、公園で寝ていたホームレスに若者が集団で火をつけるという事件があったが、これなどは「暴力行為」にあたると思う。また、それが極端にエスカレートしたものが「津久井やまゆり園」の事件だ。

こう考えると、日常の身近な人々との関わりの中でも起こり得るし、気を付けないとどんどんそれは広がって、止められなくなる場合もあるということだ。そして、特に震災のような人々みんなが不安になっているとき、パニックになっているときについては特別に注意が必要ということだ。

今回の講演会ではあまり政治に触れていなかったが、私はその時代の雰囲気は人々の生活実態、政治の影響が大きいと思う。差別は人の心の持ちようと同時に、極めて制度やルール、施策など人によって作られているものの影響が大きい。しかし、それは同時に人が作ったのだから、人が作り替えることもできるということだ。

戦争や疫病や震災が人間をいびつにしてしまう。これらを避けるために、出来るだけ小さくするために人間の知恵の出番なのだ。差別を煽って、差別を利用して時の権力者が政治を牛耳ることを許してはいけないと思う。戦争の発火点に差別を用いるのが時の権力者だ。それは歴史が証明している。