格差と貧困
過日行われた第130期労働学校の第1課程である「格差・貧困の実態を知り、打開の道を探る」の録画版を観た。
講師は『「絶対的貧困」を貧困、「絶対的貧困にある人」を貧者と認識することは、労働者の共通運命としての貧困を正しく理解することを遠ざける』と言う。その観点って大事だなぁと思った。
「絶対的貧困」・・・国連開発計画によれば「教育、仕事、食料、保健医療、飲料水、住居、エネルギーなど最も基本的な物・サービスを手に入れられない状態のこと。」「生きていく上で最低限必要な食料さえ確保できず、尊厳ある社会生活を営むことが困難な状態のこと。」と示されている。したがって、今、一般的に多くの場面で言われている「格差と貧困」の「貧困」とは「絶対的貧困」ではなく「相対的貧困」を指す。では「相対的貧困」とは何かというと等価可処分所得の中央値の半分、これを貧困線とよんでいるが、その貧困線以下を「相対的貧困」という。
定義を厳密にするのはとても難しいし、今それを展開するつもりもない。大雑把に日々のさまざまな暮らしを支えるために使うことのできるお金の額の中央値の半分以下にある割合を押さえることが大事と思う。2019年の国民生活基礎調査によれば、2018年の貧困線は127万円で相対的貧困率は13.5%となっている。つまり、この13.5%の人々に対してどのような支援をするのか、そしてこの率を下げていくためにはどうしたら良いのかということだ。
「今回の一般質問で一番難しかったのは大村さんの貧困とは何かと認識をきかれたことでした」と市長に言われたことがあった。今の市長ではなくて、前市長のときだ。確かに貧困とは何かと聴かれて、誰もがこうだという共通認識や一般論を答弁するのは難しいのかもしれない。
貧困とはこういうものという1人1人のイメージが違うし、2008年のリーマンショック以降「年越し派遣村」で貧困が可視化されたとはいえ、まだまだ貧困はタブー視される感がある。
こどもの時にテレビでドキュメンタリー番組を見て、アフリカ大陸の飢餓状態の人々の暮らしぶりを知り、可哀そうだなぁ、何とかしてあげたいと涙を流しながらも、他方、私は日本人で良かったぁと安堵する自分もいて、今となってはゲンキンだったなぁと思う。最近読んでいる斎藤幸平氏の「人新世の資本論」では「今だけ、金だけ、自分だけ」の資本主義を痛烈に批判していて、アフリカの人々を飢餓や貧困に追い込んでいるのは私たちではないかという思いも強くしている。
ともあれ、世界の貧困、日本の貧困をイメージや漠然とした感じで捉えるのではなく、その本質をつかみ、自分の暮らしぶりも含め改善のために何が出来るか何をするのかを考えなくてはならない。
私は生活保護の相談活動をたくさんしてきて、実態から入っている。そこは強みではあるけれど、他方、あまり系統立てて学習ができていない。感情論や目の前の困難からの打開策が最優先だった。それでいて、対症療法ばかりやっている貧困対策に対して不満もある。自分の中で、「格差と貧困」にどう向き合うか、もっとよく考えたい。労働学校はそのきっかけになった。