大村洋子
大村洋子大村洋子

地域医療セミナー 「検視について」講演会

在宅の看取りということが進められるようになって、もうどのくらいだろうか。昔の日本人の多くはいわゆる「畳の上で死ぬ」ことが多く、年老いた者から順番に死んでいくというのが日常の風景だったようだ。それが、高度経済成長期の頃から、病気になり手術をして良くならず、病院で亡くなるということが増えた。

私の母は病院で死んだ。母は死ぬちょっと前まで、ベッドの上で排泄していた。意識はあったし、私がそばにいることも理解していただろう。その人間がスーッと静かになったかと思うと、いつの間にか息が止んで死んでしまった。その後は医師や看護師が来て眼球をみたり身体を拭いたり、たぶん何度も繰り返されてきたことなのだろう、手際よく進んだ。

私の父は自宅で死んだ。父は母が死んだ後、1人暮らしだったので、いわゆる孤独死である。私は父の死を千葉県印旛警察の警察官から連絡を受け知った。ひとりぼっちで逝かせてしまったことが心底申し訳なかった。父の死に事件性は認められず、解剖されることはなかった。

考えてみれば、対照的な死というものを私は両親の死から経験した。

 

厚生労働省は医療費の削減を念頭に置き、具体的には病院のベッド数を減らすことを推進してきた。一方で、「自分らしく最期を迎える」が大宣伝されて、自宅における看取りが広がり横須賀はその先駆けとなってきた。私は半分賛成で半分反対。自分で自分の最期をを選択できるのは良いと思うが、他方、それが本当に実態として可能なのか、そのことをずっと疑ってきた。そもそも、一人暮らし高齢者が増えている昨今、自宅で看取りと言っても、いったい誰が看取りをするのか。

私の父のように一人暮らしの人間が死んだ場合は、必ず、検案となる。警察官が来て、傷跡がないか、不自然さはないか、恨まれていたりしていないか・・・・等々を判断するのだそうだ。日常的に在宅で訪問医療にかかっていたとしても、医師が死亡診断書を書く際に対応する。病院ならば、医師はそこにいるが、在宅ならば、医師が駆け付けなければならないことが多い。医師の研修や、そもそも数も必要になる。本当に、一人一人の丁寧な死を保障できるのだろうか。病院だからそれが可能かと言えばそうでもないのかもしれないけれど、在宅となると困難性は高まるのではないか。

 

今回のセミナーでは在宅看取りの是非についてがテーマではなかったが、警察の関与と在宅死というのは裏腹なのだということを考えざるを得なくなった。

今後、ますます、超高齢社会、多死社会。生きるのも大変、死ぬのも大変。人間らしく生きて死ねる社会をどうやってつくるか、前途多難。それでもやらなきゃ。

参考資料