大村洋子
大村洋子大村洋子

陸軍桟橋 シリーズ地域と戦争

「学習の友」への寄稿を掲載します。

私の住む浦賀の歴史について書きました。

 

浦賀はペリー来航・開国の町

 「泰平の眠りを覚ます上喜撰 たった四杯で夜も寝られず」ご存じ、1853年横須賀・浦賀沖にペリーが来航した際の風刺狂歌です。私が住むこの町は「開国」の地として教科書にも載ったほど有名な土地であり、地元では中島三郎助という奉行所の与力が黒船に乗り込みペリー一行と折衝したとして、ちょっとしたヒーローです。小さなちょんまげ姿のお侍が大男の大勢いる異国船に飛び込んだのですから、中島の度胸たるや凄いものだ、あっぱれ!あっぱれ!と痛快です。まt、当時の浦賀の人々は我も我もと沖に見える黒船を一目見ようと黒山の人だかりだったとのことです。中島の度胸といい、住民の好奇心といい、これらの逸話が私は大好きです。

戦争が終わって「引揚船受け入れの町」へ

 そんな開国のまち浦賀にペリー来航から92年後の1945年、現在、横浜港に繋留中の氷川丸が引揚船の第一船として入港します。以来、前期(1945年10月~1946年3月)後期(1946年4月~1947年3月)までの約1年半、多くの引揚者を受け入れ、その数は56万人となり、佐世保、博多、舞鶴に次ぐ多さでした。

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前期は南方のからの引揚者

 ミレー島など旧委任統治領の南洋諸島から陸軍1,020人、海軍1,466人の兵隊を満載した船が次々と到着。このうち約500人は入院を要する傷病患者でした。その後フィリピン・ミンダナオ島や中部太平洋諸島からも続々と帰還。栄養失調やマラリアなどの重症病者が多く引揚開始から4か月の間に876人もの死亡者出たという記録が残っています。(「行幸を仰ぎ奉りて」浦賀引揚援護局)「裸足でやせ衰え、ボロボロの衣類で下半身腰部だけまとい、力ない足取りで上陸したとき、これが歓呼の声で送られた兵隊さんかと、涙が出ました」「入院患者で歩行できる者は皆無。健康と称される者も栄養失調とマラリアで、四つん這いにならなければ歩行できぬものが相当あった」と浦賀引揚援護局史には記載されています。

後期は大防疫の拠点へ

 後期は中国広東・海防方面からの引揚が開始。多数のコレラ患者が発生しました。近隣の久里浜や長瀬の海軍対潜学校は検疫所を移転拡充させコレラ大防疫を実施する拠点となりました。

 コレラ船の第一船は1946年4月に入港したリバティ―輸送船V075号で引揚者総数4,038人、すでに航海中にコレラで10人が死亡しました。その後約2か月で引揚船は24隻。引揚者の87,667人にコレラ防疫作業が実施されました。重症患者も多く出て国立久里浜病院では最多で2,070人の患者を受け入れていました。久里浜検疫所においてコレラ死亡者数は把握されているだけで398人。船内死亡者数も前述の10人以上いたと思われ、全体像はわかっていません。検疫所内には仮設の火葬炉が13基新設され、一日で最多46体を火葬したとの記録が残っています。

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むすびに

冒頭、記したように浦賀は「開国の地」という光と「引揚・防疫の地」という影の両面を持つ町です。両方、歴史の事実です。

私たちの父母、祖父母の時代に日本は戦争を行い、日本全国にはさまざまな戦争にまつわる歴史が刻まれています。その土地、地域に生きる者として、土地にしみ込んだ歴史を掘り起こし後世へとつなげ、戦争をたくらむ流れを断ち切る力にしていくことが必要です。そのたゆまぬ行いこそ、平和を守る道だと改めて感じます。