大村洋子
大村洋子大村洋子

社会保障の自助・自立・相互扶助とは国家の責任放棄が本質

「第7回介護保険と介護労働者を考えるつどい」に参加した。団塊の世代が75歳を迎える2025年をひとつの節目に日本は「多死社会」になっていくと言われている。どこで最期を迎えるか、自宅で亡くなっていた時代から、病院で亡くなる人が多くなり、それをまた自宅で最期を迎えるというかたちに変えようとしている。病床数を減らそうとしている。どこで最期を迎えるか、選ぶことが出来るのはいいとしても、病院で最期まで治療を受けることは、難しい社会になっていきそうだ。自宅で最期を迎えると言っても、高齢夫婦や単身者はどうすればいいのだろうか。

介護保険の制度も大きく変わって、横須賀も来年から総合事業へと移行していく。要支援の1,2が介護保険の制度から抜けて、主には地域でボランティアなどの活動にゆだねられる。地域のコミュニティが強化されるのはいいことだと思う。しかし、今日のつどいの中でも、立教大学の芝田英昭先生が語っていたが、今の安倍政権は自助、自立、相互扶助を強調して、社会保障への国家責任を放棄している。

憲法25条の第2項の主語は「国は・・・」である。国民の最低限度の生活を保障することが、憲法で謳われているのだ。

私は、最後の最後まで、社会保障は国の責任であると言い続けられるだろうか。帰りの電車でつくづく考えた。介護、障害、生保、国保そういうものに国がしっかりお金をつけろと言い切るのは、国家予算全体を見渡して、考察できる力がなくてはならない。胴上げ型ー騎馬戦型ー肩車型・・・・高齢者を支える世代が少なくなっているのをこんなふうに表現する仕方があるが、だからしかたない、福祉にお金がかかる、だから、消費税の増税だって仕方がない、そんふうに考えがちだ。

でも、本当にそうだろうか。防衛費(軍事費)はどうだ、前項で書いた思いやり予算は?アベノミクスで大企業は儲かったが、トリクルダウンで中小企業にまで恩恵はきたか。さらに大企業に法人税減税までしようとしている。そういうカラクリを見破る力がなければ、福祉削減に沈黙するしかなくなってしまう。

持続可能・・・そのためにみんなが少しずつ負担を分かち合うという。本当にそうだろうか。学習こそ大事だ。そのことを再確認した。